書評
002. 村岡寿寿『あの夏、ぼくらはここにいた』
志張陽太郎
この小説は夏の話である。作者の村岡寿寿氏は、なんて読むのかと思ったら「ひさとし」だそうだ。奥付に "© Hisatoshi Muraoka 2025" と書いてあったから間違いない。この名前は読まれにくくて大変だろうな、と思う。
かくいう私も、よく略称で「シバヨウ」と呼ばれていたのだが、これは私の感覚ではちょっといただけない。なぜならば私の苗字は「志張」であるから「し」と「ばり」に漢字がわかれている。だから「シバ」で切られるとなんとも座り心地が悪いのである。キムタクは気分がよくないだろうなあ、と思ったりする。
キムタクはともかく、私はある時に周囲に宣言したのである。漢字の読みを途中で切るような真似はしないでくれ、と。
そうするとしばらくのあいだ「シヨウ」と呼ばれることになった。周囲も苦肉の策でそうすることにしたのだろうが、上下一文字ずつなら志陽だから、当然の帰着である。
しかし、これは非常に響きが悪いのだ。短すぎて、私自身が聴き逃してしまうこともあったし、仕様だの使用だの枝葉だの私用だの止揚だの試用だの、アクセントが違っていてもとにかく同音異義語が多いのである。
多くの人がそう思ったのであろう。私はなんにも言っていないのに自然と周囲が「シバリヨウ」と呼ぶようになった。太郎を消しただけじゃねえかとも思ったが、そこは黙っていた。
当初は「リ」にアクセントがあったように思うのだ。しかし親しげな呼びかたは、どうしても平板型のアクセントになっていくものである。これが非常に厄介なのだ。どう厄介かはあえてここで書かないが、外で大声で呼ばれたりするとちょっと困ってしまう時がある。
あれは忘れもしない、去年の十一月である。二十年来の友人と某大型書店で羽生結弦のカレンダーはないかと物色している時、店にいるあいだその友人が大声で何度も「シバリヨウ先生」と呼ぶのである。もちろん彼は私のことを先生だなどとは露ほども思っておらず、多少バカにしつつもそれはそれで親愛の情なのである。
とはいうものの外でそれを連発されるというのは非常に恥ずかしく、早くここを逃げ出したい、と私は思っていた。カレンダーは完全予約制でとっくに完売していたし、もうここにいる理由はない。私は彼を促し、そそくさとエスカレーターのほうへと向かった。
するとその時、眼鏡をかけた色白で文系然とした学生ふうの青年が「先生!」と声をかけてきたのである。
「まさか先生にお会いできるとは思いませんでした。実は、本当に失礼なんですが、ご存命だとは思ってなくて……」
いや、あなたは間違っていない。あなたが想像しているそのかたは、とっくに鬼籍に入っておられる。
「違います」と言いかけたのだが、輝いた瞳をしている青年の夢を壊したくない、と私の心が叫んだ。私はけっこう優しいのである。
気がついたら私は、書店員に色紙とペンを用意してもらい、サインを書いて青年に渡していた。「志張陽太郎」と書いてはいけないと思い、最初の三文字はグチャグチャに、それから「太郎」だけは誰が見ても読めるような字で書いた。
青年とは握手をして別れたが、彼がいつ真相に気づくかと一年経った今もまだヒヤヒヤしている。
ここまで書いて気がついた。実は青年がなんにも勘違いしておらず、本当に私のファンだったのかもしれない、という可能性はまったく考えていなかった。でも私のファンだったらご存命がどうしたとか、言うわけないもんなあ……。
あ、しまった。今年も羽生結弦のカレンダー、予約するのを忘れてた。